萩本欽一はビートたけしと師匠が一緒?ダウンタウンの恩師?共演や関係性をチェック!

“欽ちゃん”の愛称で親しまれている萩本欽一さん

萩本欽一さんの師匠ビートたけしさんと一緒なのだそうです。

お笑い界のスターを生み出した師匠とは一体誰なのでしょうか

また、萩本欽一さんはダウンタウンの恩師でもあるのだとか。

ダウンタウンとの共演関係性から、その真相を見ていく事にしましょう。



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萩本欽一はビートたけしと師匠が一緒?

 

萩本欽一さんとビートたけしさんの芸風は似ているとは思えませんが、師匠を同じくしているといいます。

この二人を育て上げた師匠は誰なのか気になりますよね。

ここでは、その師匠について詳しく調べてみました。

 

萩本欽一はビートたけしと師匠が一緒?

 

萩本欽一さんには師匠と呼ばれる人が複数いました。

 

  • 池信一さん
  • 東八郎さん
  • はかま満緒さん
  • 深見千三郎さん

 

です。

 

萩本欽一さんは高校卒業後、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”に憧れて、東洋劇場に入団しました。

幼い頃から貧しい生活を強いられてきたという事も、入団を志すきっかけになったといいます。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一さんや東八郎さんから指導を受けました。

あの有名な「欽ちゃん走り」の原点は東八郎さんなのだそうです。

これらの先輩芸人に芝居を一から教え込んだのが、浅草の首領こと深見千三郎さんでした。

なので、正確に言うと萩本欽一さんは深見千三郎さんの孫弟子と言えるのかもしれません。

また、はかま満緒さんは、自宅に「はかまお笑い塾」を作り、放送作家という立場で萩本欽一さんを芸人として世に送り出した一人となっています。

 

この中で、ビートたけしさんと同じだといわれる師匠は、深見千三郎さんでした。

深見千三郎さんは今から約36年前の、1983年2月2日の早朝、東京・浅草にあった自宅アパートの火事で帰らぬ人となりました。

当時58歳という若さだったという事で、ますます活躍するはずだった矢先の出来事に新聞各紙には、かなり大きく紙面を割いて訃報が掲載されました。

記事によると、深見千三郎さんはその2年前に芸人を引退し、化粧品会社に転職していましたが、その前月のお正月休みには久々に浅草のストリップ劇場「フランス座」の舞台に立っていたのだそうです。

芸人は引退していたという事ですが、最後まで様々な分野で活躍されていたのですね。

 

深見千三郎さんの訃報を聞いた、弟子のビートたけしさんは、全身を打ちのめされた感じがしたのだといいます。

自伝的小説『浅草キッド』(新潮文庫)に、

「師匠もフランス座の劇場を退(や)めてしまって、きっとたまらなく寂しかったのに違いない」

と書いたビートたけしさん。

「でも芸人としてはパッといなくなるってのは、カッコいいなあって思った。

誰かに悲しまれることが嫌いな人だし、お父っつぁんらしい死に方だった」

と師匠を偲んでいたといいます。

ビートたけしさんが言うように、悲しむのではなく、いつまでも慕われる事を、深見千三郎さんも望んでいるかも知れないですね。

 

萩本欽一の師匠深見千三郎とは?

 

深見千三郎さんは、本名・久保七十二(くぼなそじ)さんといいます。

1923年に北海道の樺太(サハリン)、現在の浜頓別町で生まれ、木工所を経営していた両親の末っ子として育ちました。

高等小学校卒業後、浅草芸者だった姉の染子さんを頼って上京し、やがて姉の紹介で、当時の映画スター片岡千恵蔵さんのもとで修業を積みました。

京都での修業時代には、弟子仲間と「チョンマゲ・ボーイズ」という3人組のお笑いグループを結成しています。

その後1年ほど経った後、東京に戻り、浅草六区の軽演劇の劇場「オペラ館」に出演しました。

しかし、当時は東京大空襲真っ只中。

両親はその空襲で命を落としています。

 

深見千三郎さんは、帰郷して1945年に『深見千三郎一座』を組み、座長として全国各地を巡業した後、1959年頃に浅草へ復帰し、ストリップ劇場『浅草ロック座』に入ったのです。

その後、同じくストリップ劇場の『フランス座』(現・浅草フランス座演芸場東洋館)の経営に参画しました。

この時、萩本欽一さんや渥美清さんなど、かつての仲間や後輩が続々とテレビに進出しますが、深見千三郎さんはその流れに背を向けてしまったのです。

1971年にはフランス座に移り、裏方を取り仕切りながら舞台に立ち続けました。

そしてこの翌年、フランス座にエレベーターボーイとして入ったのが、25歳のビートたけしさんでした。

たくさんの芸人を育ててきましたが、ビートたけしさんはとりわけ可愛がっており、コントやタップダンスの演技を教え込んだのだといいます。

ビートたけしさんとの最初の関係は、劇場のエレベーターボーイだというのは意外でした!



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萩本欽一はダウンタウンの恩師?共演や関係性をチェック!

 

ここまで萩本欽一さんの師匠についてみてきましたが、萩本欽一さんを恩師と慕う後輩もいます。

あまり知られておりませんが、ダウンタウンのお二人も萩本欽一さんを師匠のようにしているのだとか。

テレビ番組での共演や関係性はどの様なものなのでしょうか。

 

萩本欽一はダウンタウンの恩師?共演や関係性をチェック!

 

あまり世の中には知られていないのですが、萩本欽一さんはダウンタウンの恩師という関係でもあるそうです。

浜田雅功さんは、萩本欽一さんに頭が上がらないといいます。

それもそのはず、ダウンタウンが東京に進出するきっかけを作ってくれたのが萩本欽一さんだったのです。

萩本欽一さんは、

「出演している番組のディレクターが大阪まで漫才を見に行って、“これからはこの男たちしかいないだろう”という話を聞いて“呼んできて”って言ったんだよね」

と当時を振り返っています。

ブレイク前のダウンタウンは、『欽ドン! ハッケヨーイ笑った!』に起用され、当時まだ大阪発の若手漫才師に留まっていましたが、萩本欽一さんとの共演を機に一気に全国区に。

 

元々、NSCという養成学校出身のダウンタウンには師匠言える人がいないのだそう。

そのような中で、師匠のような存在として初めて意識したのが、萩本欽一さんでした。

今でもこの共演を恩義に感じているのだといいます。

最近ではあまり共演している番組を見かけませんが、この様な関係があったのですね。

 

萩本欽一のダウンタウン引退に関しての意見は?

 

師匠である萩本欽一さんについて、ダウンタウンの松本人志さんは、自身のラジオ番組で

「欽ちゃんの笑いは好きな笑いではない」

と言い切った事もあったそうです。

どういう状況で発せられた言葉か分かりませんが、恩人に対する辛辣な発言はウケを狙ったものだったはずです。

2015年に放送された『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)のゲストに萩本欽一さんが出演した際、松本人志さんは“ダウンタウンの引退”について意見を求めたのだといいます。

 

“ダウンタウンの引退”についてどう思うかという問いに、萩本欽一さんは、

「何?

(ダウンタウンを)終わらせようとしてんの?

何言ってんの!

これからだよ!」

と驚きながらも鼓舞していました。

「だからさ、また(一緒に)やろうよ!」

と引退なんてまだ考えられないといった様子でしたが、それは視聴者も同じですよね。

それに対して松本人志さんは、

「やりましょう」

と返答していました。

ダウンタウンが世に出るきっかけを作ってくれた師匠だからこそ、去り際についての意見を聞いておきたかったのでしょうか。

 

ちなみにこの共演は1993年放送の『ダウンタウンのイタい奴っちゃなァー芸能界まるごとウタわしたろ』(フジテレビ)以来、22年ぶりの事だったとの事。

師匠でありながら、意外にも共演は長年無かったのですね。



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まとめ

 

萩本欽一さんが師匠としている人は復数人いましたが、ビートたけしさんと同じと言われる師匠は深見千三郎さんでした。

残念ながらお亡くなりになってしまっていますが、お笑い界の大スターを世に送り出してくれたその功績は称えられるべきですよね。

また、萩本欽一さんはダウンタウンから恩師として慕われていました。

共演の機会はほとんどありませんが、あのダウンタウンでさえ頭が上がらない存在とは貴重ですよね。

お笑い界はこうして、昔から世の中に笑いを提供するために受け継がれてきたんですね。

 

参考サイト

Wikipedia

oricon ニュース

文春オンライン

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